宝の山 その2

 患者に苦痛を与えず一瞬で治す医師、橋本敬三先生は仙台に居て、医院の名を温故堂と言う。
 橋本先生の操体法の原理は、痛くない方に体を動かし六七秒間息を止めて体を停止した後、息を吐きながら一気に力を抜くだけだ。
 たったそれだけで、打身や捻挫、ぎっくり腰や神経痛が瞬時に治る。
 私が仙台の温故堂に見学に行くと、マンションの一階が温故堂で、上の階ではご子息の橋本信先生が橋本整形外科を開業していた。先生の医師登録番号は、47038と古い。
 親先生と話していると、ぎっくり腰の激痛で身の置き所もない患者を、子息の信先生が様子を窺うようにそっと連れてきた。
 患者の痛がりようは尋常ならざるもので、傍目にも気の毒だった。こんなに重症の人を、どうするつもりかと心配になった。
 患者はぎっくり腰のため半年以上も通院していたが、病気はますますひどくなり、信先生も困りはてた様子で「お父さま、ちょっと見てやってください」と頼んだ。
 激痛に悶える患者を、付添の二人の男と温故堂の助手二人の四人がかりで両脇から抱え、やっと治療台に仰向けに寝かせた。
 温故堂先生は、両ひざを立てさせ、膝の後ろの左右のひかがみを指で押し上げ、どちらの方が痛いかと聞いた。患者は左の方が痛いと答えた。
 そこで、左のかかとを床につけたまま、つま先だけを上げさせ、もう一度左右のひかがみを同時に押上げ今度はどうかと尋ると、左右とも同じ痛さになったと答えた。ここまでが診察で、次が治療である。
 そこで、右足裏全体は床につけたままで、左足のかかとを床につけ、つま先だけを親指が反り返るほど目いっぱい持上げた。六七秒停止させて、ストンと力を抜かせた。
 この操作を二度繰り返した後、再度両足のひかがみを押してどちらが痛いか尋ねると、左右とも同じですと返事した。
 僅かこれだけのことだから、時間にして一分とはかからない。ここからがドラマの始まりだった。

 温故堂先生「ヨシ、台から降りて。早く、早く降りんか」
 患者「先生、無理言わないでくださいよ。そんなに急かせても動けないんだから」
 先生「動かしもせず、つべこべ言うな。動かしてから言え、動いてみれ」
 患者「ハイ。あっ、動ける。痛くない」
 先生「ごたごた言わず、早く降りんか」
 患者「あれっ、一人で立てます」
 先生「ジャンプしてみれ」
 患者「先生、いくらなんでもそれは無理ですよ。そんな乱暴なこと言わないでください」
 先生「できるか出来んかやってから言え。ジャンプしてみれ」
 そう言われた患者はおそるおそるジャンプの真似をしたが痛くない。それから二度三度ジャンプするうち自信が湧き、「ジャンプできます」と叫びながらジャンプを続けた。
 そこで親先生は息子さんに、「バカじゃないか、こんなに簡単に治せるものを、なぜ半年も引っ張るんだ。患者が可哀想じゃないか」と、それは大層な剣幕である。
 父親の妙技の前に、信先生はただ黙ってうなだれるのみだった。
 矛先は患者に向い、「お前もお前だ。こんな薮医者に半年も通う奴があるか。下にはワシがおるのに、それを素通りして、わざわざ薮医者に行く奴があるか」と叱られた。
 60に近く、整形外科ではベテランの信先生も、医者の面目丸つぶれだ。獅子身中の虫と言いたいが、この虫はちよっと大きすぎる。
 傍で見ていた私は、「お気の毒に」と心の中でつぶやく外はなかった。
 患者が、次はいつ来たらいいでしょうかとそっと尋ねると、「もう来んでいい。こんな簡単なことぐらい自分でやれ」だった。
 本当に愛想のかけらもないが、橋本先生は患者思いで心の温かい人である。
 だから、NHKのラジオ番組「人生読本」にもしばしば登場したり、NHKの「テレビドキュメンタリー」でも取上げた。
 こんな治療をしているから、温故堂先生の貧乏は有名だし、当人もそれが美学と心得ている。
 先生が医者としての真価を発揮したのは、「異国の丘」での抑留中にあったと私は思う。
 軍医の先生は、終戦と同時に、地球上で最も過酷な自然条件のシベリアのスーチャンの炭鉱に送込まれ、第十ラーゲル(強制収容所)に入れられた。そこで千人の将兵の命を預り、三冬を過した。
 その記録が、橋本敬三論想集「生体の歪みを正す」の中に「ロスケ・ヤポンスケ」と題し語られている。
 先生は、お国のため戦で命を落とすのは男子の本懐であっても、敗戦の果てここで死んだらただの犬死だ。だから、一兵も損なわず祖国に連れ帰るのが医者の務めだと考え、本当に一人の将兵の損耗もなく、全員が祖国の土を踏んだ。
 この千人の中には、「異国の丘」の作曲家、吉田正もいた。
 この部隊全員生還の記録は、悲惨をきわめたシベリア抑留生活の中でも奇跡である。
 そにためか、「異国の丘」の歌詞には、望郷の念は歌っても、同僚の死などの悲惨は語って居ない。
 私の近くの町に住む人も、橋本先生とほとんど相前後してスーチャンのラーゲルに入れられた。
 ほとんど同じ時にと言うより同じ日に帰国していたかも知れないが、入ったとき六百人いた仲間の将兵が、帰国の時には二百人しか残らない厳しい生活条件の地だった。
 ソ連の制度は徹底した縦割だから、隣合った収容所でも、管轄が違えば交流はない。そんな中にあっても、素手で病気を治すエライ先生が、スーチャンのどこかの収容所に居るとの噂は聞いたと言う。
ロスケ・ヤポンスケ(ソ連抑留記)
 一人でも多くの方に、橋本先生の人柄と人間力の素晴らしさを知っていただきたいと思う。
 幸い、先生がお元気なとき、ミニ機関誌「イサキ」を出しておられ、その中の「ロスケ、ヤポンスケ」の連載が面白くて、「抑留記」をコピーしたり孫引きさせていただくことの快諾を得ており、気兼なくその一部を以下に紹介する。

 医務室にはヨーチン、赤チンキ、少量の日本軍用だった錠剤ぐらいしかない。千人の兵隊に日本軍隊式に使ったらすぐなくなってしまう。将校行李に一つという有り様だった。
 収容所に落ち着いて間もないころだった。ラーゲルの所長の妻君が病気で苦しんでいるから、ヤポンスケ・ドクター診に来てくれと迎えにきた。
 行って診ると、体中が痛いといってオイオイと泣いている。ロスケ女はよくオイオイと泣く。疲れに風邪が重なった状態だ。体の歪みを直して急所に数カ所、鍼を打ってやった。アラ不思議や、今までの苦痛がケロリと消えた。
 喜んだの何のって、ノコノコ起き出して、台所に行ってスープを作ってきて、クーシャイ、クーシャイと勧めてくれた。
 スープ皿は縁がぶっ欠けている。キャベツとジャガイモと山羊の骨付肉で塩味だ。すっぱいスープだ。ロスケは皿がぶっ欠けていようが、スプーンのメッキが剥げていようが、そんなことは平気だ。もっとも、それきりしかないのだ。精いっぱいの歓待をしてくれたわけだ。
 それ以来、所長の私に対する信頼は絶対となった。どんなに転属命令が来ても、あの手この手を使い、手許から離さなかったので、私は三年どこにも動かず、ここにいた。
(略)
 大隊本部は、ロスケに反抗したり、ヘイヘイしたりしていたのでは、どうにもならんし、かえって信用させて得をとれ、無事に全員帰れることが最後の目標だと一致団結した。
 大隊長は自ら先になって炭坑にも入る。副官は連絡や編成に大わらわ。主計は食料や被服装具の受領に目クジラ立てゴマカシをふせぐ。
 若い軍医は主任の女軍医の指示を受けて営内の衛生管理をやる。私は医務室に出かけて主として手技物療で患者を処理した。
(略)
 いつのまにか春になったが、吹雪の日もあった。その頃ポツポツ奇妙な患者が目立って来た。皮膚に赤い小斑点が見える。一週間のうちに急にそれが増えてきて斑点も大きくなりだした。やっと気がついた。壊血病だ。
 朝鮮出帆以来、野菜は一切口にしていない。すっぱい黒パンとジャガ芋の塩スープ、燕麦の飯ぐらいなもの。
 それでも食事の分配となると、兵隊は目の色を変えて、オレのは少ないとかオマエのは多いとか争っている。労務者上がりも大学卒も皆同じだ。食欲本能は人間最後のものだと思った。
 当局には、ビタミンC不足で壊血病が増えている、中には斑点が融合して皮下出血が拡がって腫れ上がり、痛くて動けないものも出てくる、とジャンジャン掛け合った。しかし、なかなか野菜を配給してくれない。
 仕方がないから若い軍医が患者を引率して付近の山に行き、松の枝を折り、松葉を集めてきて、その生葉を兵隊に事情を説明して毎食二、三十本ずつ噛んで汁を飲ませた。あちらの松は、大きな五葉の松で、松カサは大きく、種子は小豆粒大のものもある。兵隊も必死だ。とにかく皆で松葉を噛んだ。
(略)
 帰還して十年以上もたって拙宅を訪ねてくれた兵隊さんから、仲間では私のアダ名は松葉軍医で通っていた由を聞かされた。
(略)
 ヤポンスケ千人の集団の中には、あらゆる職種の人間がいる。われわれが入ソした時は、金物といったら缶詰のカラしかなかった。
 馬車馬の蹄鉄を作れというので、蹄鉄工が探し出された。鍛冶屋のオッサンもいた。廃車の残骸からスプリングを拾ってくる。カジヤの大将は、これで包丁、カンナ、ノミ、ハサミ、床屋の道具から鋸まで作った。
 それに洋服屋さんもいる。床屋さんもいる。大工さんはもちろん、靴屋さん、指物屋さんもいる。
 ロスケの将校に服地の配給があると、オレの妻の洋服を作ってくれとねだりに来る。こちらが経理部の作業服修理で忙しくても、ダワイ、ダワイとせがむ。
 ロスケの大工は手斧一丁と押ビキの鋸だけだ。指物屋のオッサンはいろいろこまかいノミやカンナまで作ってもらったので、医務室の戸棚まで作ったら、それを見た所長が、ぜひ自分の洋服箪笥を作ってくれという。
 そんなものお茶の子サイサイ。飾り模様まで付けてやると大満悦。ハラショウ、ハラショウの連発だ。何とヤポンスケは天才民族よと彼らには見えたことか。
(略)
 春が来て雪が消えた。兵隊達に畑を作れと勧めて も、だれもすぐ帰るのだといって、つくらない。私はスコップで畝を作り、タンポポのタネをまいて畑作りをした。
 小さな小さな芽の出る時のかわいらしさ。タンポポはすぐ育つ。花も茎も葉も根も皆たべられる。葉や根はフライパンでいためて、塩味で食べると、苦い風味があった。
(略)
 衛生下士官は皆鍼をおぼえて 、治療に使った。私は十数本持っていったのだが、みんな消鈍してしまった。
 ところがである。衛生兵の中にもいろいろな職人がいた。電話線を拾ってきて、細い銅線の束の中に一本入っている鋼線を引き抜いて、適当に切って紙ヤスリをかけて細く細く磨いて、銅線を竜頭に巻いて、立派な直径〇・一ミリくらいの一番鍼を作り上げてしまったのには、私も舌を巻いた。
 そんなわけで、帰るまで鍼に不自由はなかった。炭鉱に出かけて、ロスケに施術して、結構マホルカ(たばこ)などをせしめてきた。しまいには主任女軍医も教えてくれといって、やれるようになった。
(略)
 思想工作はあっても、抑留の後半には、楽団も劇団もできて、ときどき巡回してきた。吉田正君がわが部隊にいて、ギターを弾いて歌ったりしていた。「異国の丘」の作者で有名になったのは帰ってからのこと。
 軍医殿三天物やりますか、などと言ってくれたこともある。今ではソバにも寄れない。チェロの井上頼豊君 (後に桐朋学園教授)は楽団長だった。
(略)
 二十三年の晩夏、舞鶴港に入ったとき、海岸に密生していた竹林の微風に揺れる緑を見た時は、ああ日本の山河未だ健なり、と恍惚とした。
 上陸すると、何だか知らぬが白い粉をブッかけられ、クレゾールの湯に入っている間に被服は蒸気消毒が完了していた。
 あれほど三年間、虱々で攻めたてられ、デスカンマー一点張りでいじめやがったロスケは、未だ知らなかったのに、アメさんはDDTを開発していたのだ。蚊帳も吊らないのに蚊も蚤も虱も一匹もいない。終戦時、ロスケの方がまだましだろうぐらいに思っていたことを思いだして、バカだったなあ、損したなあ、と思った。完











 橋本先生から頂いた、本人直筆の死亡通知を以下に紹介する。

 橋本敬三先生は、平成5年1月22日に亡くなられた。
 戒名は、求道院廣誉温故知新居士。
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