癌、糖尿、老人性痴呆も 治っているのに難治病とは


老人性痴呆(認知症)
 鈴木鎮一先生は百才目前まで現役で、最後まで指導者の育成に情熱を注れた。
 先生が亡なる数年前、年に一度の才能教育指導者研修会が豊橋で開かれた。
 娘は鈴木先生が米寿のときの生徒で、自宅と指呼の間での研修会に出かけたが忘物を取りに戻り、「鈴木先生はボケボケで、どこにいるのか、なんのためにいるのかも分らない」と慨嘆した。周昌院の出番だ。
 私は一品だけを持ち、会場のホテルに出かけた。エレベーターの前で鈴木先生に遇い、声をかけるとハゥドユードゥーと握手を求められた。
 握手をしながら、左手で先生の背広のポケットに例の品を押込んだが、それには気かなかった。先生はセンキュー、シーユーアゲインの言葉を残しエレベーターに消えた。どうやら、私が日本人なのか、外人なのかも分らないようだ。
 異変は翌朝起きた。五百人ものバイオリンやフルートなどの先生を前に、原稿も持たず理路整然と長広舌を始めたから、昨日までの鈴木先生はなんだったのかと全員が狐につままれた。しかし、私には治るとの確固たる自信があった。
 それは、件のものを一晩持っただけで、自分の名前も言えない重症のアルツハイマーが完治した例があり、敏感な体質の鈴木先生ならなおのことその効果が期待できるからだ。
 しかし我が娘ときたら、「遠美近醜、近くの坊(ぼん)さん偉くない」の例え通り、父の周昌院療法になんの期待もしない。やはり正真正銘の豚児である。


緑内障

 昭和六十一年のこと、歌舞伎役者の片岡我當さんに、五十肩が治せないかと相談を受けた。また八十二才の父親、仁左衛門さんは緑内障で完全失明しているが、十月からの国立劇場開場二十周年記念の忠臣蔵に由良之助役で出演が決っており、なんとか視力を回復して欲しいと言う。
 周昌院事務所に鍼灸師が勉強に来ると、異口同音に五十肩と座骨神経痛は治せないと言い、私が目の前で治すと驚く。
 我當さんの五十肩は重症の部に属するものだったが、周昌院の一品に一瞬タッチした瞬間に治っており、滅多にない敏感な体質だった。
 それにひきかえ、仁左衛門さんはやや鈍感な体質で、初回の処置では明暗や輪郭が分るまでには回復したが、細部までは見えず、前途多難を思わせた。
 それでも初めての手当で、「先生のお姿が、朱鷺色の色眼鏡をかけたように見えます」との言葉は忘れられない。流石、伝統芸能の人間国宝だ。ピンクのサングラスでは日本語の味がない。
 後日発想を変え、耳の中に脳幹に効くツボがあるのではと考え、ついにはそれを発見し、一挙に視力が回復した。
 このツボは脳幹に働きかけるので、視力だけでなく全身の殆どに効くから、このツボを「最上(英名スプリーム)」と名付けた。
 仁左衛門さんの「最上」のツボに初めて周昌院で手当てした瞬間、違い棚を指して「おぉ、観音様はそこにお祀してあったのか」が最初の言葉だった。回復した眼に最初に映ったのが観音様なら、壷坂霊験記だ。松嶋屋ッ。
 新聞を差出すと、記事は読めないが見出しは読める。これで芝居のできる見通しがついた。
 由良之助役の終る十一月末まで、私が上京して視力の回復と確保を引受けた。

末期の前立腺癌
 ある時、上京途上の車中で、「尾上松緑・風前の灯」の記事を目にした。いつ松緑さんの見舞に行くのか仁左衛門さんに訊ると、今宵参りますとの返事だった。
 そこで年寄り向きで使い方が簡単な、三種類(現在は四種類)の例のものを託した。鈴木先生のポケットに押込んだのも、この中の一つだった。
 松緑さんは前立腺癌で広尾の日赤に入院しており、万策尽果てたと報道されていた。
 下腹に周昌院の例の品三個を置くと同時に、感激の声で「ヒャー、気持ちがいい」と言い、苦痛は雲散霧消し一瀉千里の勢いで回復に向った。
 癌は一週間で消失、一ヶ月後に退院し、まもなく歌舞伎座で石川五右衛門を演じた。
 値千金とは小さなたとえ、この松緑・五右衛門が目からは値万両。図らずも一石二鳥ならぬ一石二名優の栄に浴した。


再発手遅れの癌
 1年前に腸にできた癌を、聖路加病院で手術で切除した。1年後に再発したが、手遅のため医者は匙を投げ、自宅で静養中の女性がいた。彼女の部屋で十分ほどの時間をかけ、周昌院の手当をした。
 すると別人の振舞になり、数日後には高名なバイオリニストである紹介者が、聖路加病院に連れて行った。検査結果は、癌はもうどこにもなかった。それから二十五年も元気に生活し、九十うん歳の天寿をまっとうした。


手遅れの癌をもう一話
 松緑さんと聖路加病院の患者さんは、あまりにも名前を知られた人であるが、この方は高知市に暮す市井の人である。
 平成6年7月30日、患者の娘さんが周昌院事務所に現れた。母親の左肺に大きな癌があり左太腿骨にも癌があって、組織を採取検査した結果、転移癌だと確定した。
 余命3ヶ月と宣告されたが、本人には病名も余命も知らせてない。
 母一人子一人の家庭事情を考慮して、周昌院の数ある七つ道具から、比較的使い方が簡単で効き目がいいと考えられるもの、3種類10点を持たせて帰した。
 
 2週間後、礼状が届いた。・・・おかげ様で母は8月12日に退院することができました。
 2度の組織検査の結果、悪性のものではないとのことでした。(お医者様は『まだ疑いは捨ててないんだが・・・』と首を傾げております。)
 私の手にかかると、専門用語で言う「脱癌」が起きることが数例に一例の割合で起き、ガン細胞が正常細胞になるケースに遭遇する。この場合もそれに相当していたのだろう。
 主治医には気の毒なことであるが、教科書に書いてないこうした事態に直面すると、素人にも合点がいかない発言がしばしばあり、高知の患者の場合にもそれが始った。
 はじめに、原発部位の肺、ついで左太腿骨から組織を採取して転移癌と確定しているから、癌である事は疑いの余地がない。そうしたことも忘れて、3ヶ月後には肺炎だったのかなあと言いだして、1年後には結核だったと思うと言う始末だ。
 肺のそれが正しいとしても、左太腿骨にあった転移癌の消失をなんと説明するのか。その存在についてはすっかり忘れている。
 半年も経つと、患者さんは知らぬが佛で、日本中へ気ままな旅を続け、平成21年1月の今も元気に暮している。


機内での心臓発作
 国際線の機長に、機内で心臓発作をおこした患者を助ける方法を教えてと頼まれた。その機会を待っていたように、直後のロサンゼルス便で、心臓発作の女性客が出た。
 会社の手順に従いドクターコールしても名乗り出る者はなく、乗務員が心臓マッサージをしたが、意識がなくなったとの報告が来た。
 機長はおっとり刀で駆けつけ、取敢えず両手の小指のツボに処置すると意識が戻り、二の腕の付根のツボに施すと立上がってジャンプをしてみせた。万歳!
 席をファーストクラスに移し、無事にロスに到着した。搭乗口で見送りに立っていると、患者の夫が手を出した。機長は治した揚げ句、お宝をタダで取られたとぼやいた。


糖尿病
 自営業の男性が、生命保険に加入するための診察を受けた。晩婚で子供が小さく、万一に備え保険に入ろうとしたが、糖尿病と診断され当方の事務所に来た。
 簡単な処置をしただけで、顔面は紅潮し身体が軽くなったと喜んだ。改めて同じ医者に行くと、今度は文句なしの合格。すぐに保険加入の手続きを取ったのは言うまでもない。

これも糖尿
 当事務所の近くに住む女性は、両親を糖尿病で亡くしており、糖尿の純血種だと自覚していた。
 さらに糖尿の持病がある上に、最近急に痩せたと心配顔で来た。痩せても怖いから、医者にはかからないと言う。話の様子から、肝臓癌の疑いが濃厚だ。
 週に一度だけこちらに通い始ると、体重は見事に回復し、二週間後にはふっくらした中年オバさんの体型に戻った。むろん、血糖値も正常になった。
 これを見た彼女の姉も行動を起した。実は、姉も糖尿病だった。二週間後、姉の血糖値も正常に戻っていた。


リューマチ・癌
 最後に家内の話。妻はもともとリューマチの持病があった。独身時代は虎ノ門病院で世話になり、結婚当時は治っていたかに見えたが、まもなくしばしば発症した。勝手が分るに従い、リューマチは次第に陰を潜めた。
 ところが、昭和55年には直腸に夏みかん大の癌が出来た。また、平成10年には膀胱に直径15_高さ20_で移行性を含む扁平上皮癌があり、進行癌で悪性度は4との確定診断が下された。
 どちらの癌も、医学的には助る見込みの少ない状況であるが、私の手で瞬く間に消滅した。こんな話なら掃いて捨てるほどあり、個々の症例はこれで終る。しかし、私の言いたいことは別にある。

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